遠き家路にて

冷たい風が頬を刺す夜明け、アレクサンドル・ヴァン・エルドリッチは足早にカストゥムを後にした。イザベラの婚約を伝えにフォルティス平原の実家に戻る役目を自分が引き受けるのは自然なことに思えた。往復の道のりは決して楽ではないが、カストゥムで自立を始めた彼にとっては、家族の大切な節目に関わることができる喜びの方が勝っていた。

道中、かつて家族と過ごした日々が次々と脳裏に浮かんでくる。イザベラとは幾度となく口論したこともあったが、彼女の純粋さと、常に家族を想う優しさは誰よりも理解している。少し前までは、自分がこの役目を引き受ける日が来るとは思わなかった。「婚約」と聞くと、突然イザベラが手の届かない存在になってしまったような気がして、少し心がざわつく。


イザベラは、カストゥムに残りアレクサンドルを見送りながら、心が温かいもので満たされているのを感じていた。彼女の婚約が家族に伝わることで、父や母がどのように感じるか、考えるだけで胸が弾む。しかし、同時に心のどこかで、小さな不安も芽生えていた。

「きっと、大丈夫。アレクサンドルが伝えてくれるもの……」と、心の中で繰り返しつぶやく。アレクサンドルが信頼できる兄であり、彼女の人生の重要な場面において力強く支えてくれることに疑いはない。しかし、家族の一員として、彼女もその喜びや決意を家族と直接分かち合いたい気持ちがあった。カストゥムから遠く離れた実家まで、自分の口から伝えられないことが少しだけもどかしい。


フォルティス平原に差し掛かるころには、陽が高く昇っていた。父と母がどんな顔をするのかを思い浮かべると、少し微笑みがこぼれる。自分が、妹の婚約という知らせを持ち帰る。まるで、家族と新たな絆を紡ぎ直すための旅のようだ、と彼は感じていた。

「イザベラは、どんな気持ちで婚約を決めたんだろうな……」と、馬の背に揺られながらアレクサンドルは考える。彼が知っているイザベラは、温和で少し控えめな性格だった。だが、ここ数年のカストゥムでの生活で彼女も確実に成長しているはずだ。新たな人生を歩み始める妹の姿に、どこか羨ましさと共に、誇りにも似た感情が湧いてくる。


家の前に馬を繋いでいたアレクサンドルの姿を見つけた瞬間、母アンナは深い安堵と喜びを感じた。彼が戻るたびに、家の中が少し明るくなるような気がするのだ。「イザベラが婚約したのですって?」と、アレクサンドルの言葉を聞いた母は、彼の顔を見つめながら、静かに微笑んだ。

「そう……あの子がねぇ」と言いながらも、心の中では、娘が家を離れて遠くで新たな生活を築こうとしていることを寂しく感じる自分もいた。しかし、母は続けて「きっと素晴らしい人生になるわ。あなたが彼女を支えてあげてね」と、アレクサンドルに言葉を託す。


アレクサンドルは、母の静かな喜びとわずかな寂しさを理解していた。彼は、その一瞬の表情に、家族の絆がどれほど大切なものかを再認識する。「僕にできる限りのことをするよ、母さん」と言葉をかけながら、自分の胸にも家族の存在の重みが静かに積もっていくのを感じる。

彼が帰り支度を始めるころには、母も父も、温かいまなざしで彼を見送った。イザベラの婚約という新しい節目に対する想いが家族に共有されたことで、アレクサンドルはまた、カストゥムへと帰るべき使命が一つ増えたような気がしていた。

家族への想いと、妹イザベラへの誇らしさとともに、アレクサンドルは家路を後にする。彼の心の中には、家族の未来と、カストゥムで待つ新たな日々への期待がゆっくりと根を張り始めていた。