脆弱な砦
薄暗い夜の帳がエリディアムの領地に降り始める頃、クレスウェル家の広大な屋敷に設けられた指揮室には緊張感が漂っていた。窓から差し込む月明かりが、重厚な地図と書簡が散らばる机の上に淡い光を落としている。ガイウス・クレスウェルは、腕を組み、深く刻まれた眉間のしわをさらに深めていた。何度見直しても防衛計画は穴だらけだった。
「これでは、どこか一か所でも突破されたら全てが崩れる……」
自分の声が空気に吸い込まれるように響き、ガイウスはため息をついた。かつてクレスウェル家を支えていた軍事力は、月の信者たちの陰謀によって次々と削がれ、今ではほとんど防衛の要を失っていた。契約していた傭兵団のヴァルカス・ヘルビウスさえも裏切った今、外部の支援も望めない。
ガイウスの隣に立っていたアンナは、夫の肩に手を置いた。彼女の手の温かさが、一瞬だけガイウスの重たい心を和らげる。しかし、その温もりは、今やクレスウェル家を守るための最後の砦のようにも感じられた。
「あなた、まだ方法はあるわ。私たちは必ず守れる」
アンナの声には力強さがあったが、彼女の瞳には不安が見え隠れしていた。二人が並んで立つ姿は、まるで風に揺れる小さな炎のようだった。
「しかし、我々にはもう頼れる者がいない。防衛の要だった契約者たちは次々と裏切り、軍の大部分が崩壊した。残された兵も士気が下がり続けている」
ガイウスは視線を下げ、机の上の地図に目をやった。これまでは何度も防衛計画を練り直し、部下たちに指示を与えてきたが、今回はどの策も機能しそうにない。隙間だらけの防衛線は、月の信者たちの陰謀がどれほど周到であったかを物語っていた。
「私たちの領地が侵略されたら、民たちはどうする?外敵に対して無防備では……」
ガイウスの声に焦りが滲む。かつては誇り高き戦士であり、数々の戦場を駆け抜けた彼だが、今はただの無力な当主に成り下がっていると感じていた。彼が守るべき家族や民たちは、もうすぐその守護を失おうとしていた。
「ガイウス、私たちは諦めるわけにはいかないわ。あなたがここに立っている限り、私はあなたを信じる。そして、リディアやエリーナの未来のためにも、私たちは立ち上がるしかないの」
アンナの強い言葉が彼の心に響く。ガイウスは、顔を上げ、アンナを見つめた。彼女の眼差しは揺らぎなかった。彼女だけは、自分が語る月の信者の話を信じ、支えてくれている。
「アンナ、ありがとう。だが、これ以上家族を危険に晒すわけにはいかない」
そう言いながらも、ガイウスの胸には新たな決意が芽生え始めていた。防衛の要を失った今、クレスウェル家がこれ以上の危機を迎えることは避けられない。しかし、彼は家族と領地を守るために、最後まで戦うつもりだった。
ガイウスは机の上の地図に再び目を落とし、今度は慎重に指を動かし始めた。新たな防衛策を考えるため、これまで以上に細かな計画を練る必要があった。アンナの温かい手が、再び彼の肩を支えている。
「まだ終わってはいない。この戦いを最後まで戦い抜く……クレスウェル家が持てる力すべてを尽くして」
薄暗い部屋の中で、二人は静かに、しかし確固たる決意を胸に次の手を考え始めた。彼らにとって、これは最後の砦だった。