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裏切りの契約

裏切りの契約

ヴァルカス・ヘルビウスは、夜の静寂に包まれた宿屋の一室で、窓の外にちらつく月明かりを眺めていた。その目は暗い憂いを帯び、手にした酒の杯がわずかに震えている。彼は、重く肩にのしかかる決断の重みを感じていた。

「クレスウェル家には感謝している」と自分に言い聞かせるように呟いた。しかし、その言葉は空虚で、心の奥底から湧き上がる不安と恐怖を消し去ることはできなかった。

突然、部屋の扉が静かに開いた。影が揺れ、黒いローブをまとった男がゆっくりと入ってくる。その冷たい笑みが浮かぶ顔には、ヴァルカスがかつて何度も見た恐ろしい威圧感が漂っていた。リダルダ・カスピアン――月の信者たちの影の指導者。彼の存在が、ヴァルカスの背筋を冷たく走らせた。

「ヴァルカス、決断の時だ」

リダルダは低く、しかし確固たる声で語りかける。その声には拒絶を許さない冷酷さがあった。ヴァルカスは歯を食いしばり、心の中で葛藤が渦巻いた。彼は、クレスウェル家に忠誠を誓ったつもりだった。だが、今やその忠誠が彼自身と部下たちの命を脅かすものとなっていた。

「……なぜ、俺にこんなことをさせる?」

ヴァルカスは、絞り出すように問いかけた。リダルダは冷たい微笑を浮かべたまま、目を逸らさずに答える。

「クレスウェル家はもう終わりだ。あの家が滅びるのは時間の問題。お前がその沈む船に残るか、それとも月の力のもとで新たな未来を築くか、それだけの話だ」

ヴァルカスは拳を握りしめ、激しく心が揺れ動くのを感じた。クレスウェル家が過去にどれほど自分と部下たちを支え、守ってくれたかを思い出す。だが、同時にリダルダの言葉が現実として迫り来る。もし彼がこの提案を断れば、月の信者たちの怒りが自分や部下たちに向けられるだろう。そして、それは確実に破滅を意味していた。

「防衛計画の情報を渡せば、本当に俺たちに危害は加えないんだな?」

ヴァルカスは、リダルダの目を見据えながら問いただした。リダルダは微笑をさらに深め、静かにうなずく。

「約束しよう。情報を渡せば、お前たちには手出しはしない。それに、月の力のもとに新たな契約を結べば、さらに強大な支援が得られる。君は賢い選択をしている」

その言葉を信じるべきかどうか、ヴァルカスは迷った。だが、心の中で繰り返されるのは、部下たちの安全のことだけだった。彼は自分の命を賭けるつもりだったが、仲間たちの命を危険にさらすことはできなかった。

「……分かった。防衛計画の情報を渡す」

ヴァルカスは、重苦しい決断の一言を口にした。リダルダは満足そうにうなずき、手を差し出す。その手を取った瞬間、ヴァルカスは背筋に冷たいものが走るのを感じた。これが正しい選択だったのか、それとも最悪の裏切りだったのか――その答えを知るのは、もう少し先のことだった。

彼が月の信者と契約を交わした瞬間、宿屋の部屋は月明かりに照らされ、影が彼ら二人の間に広がっていった。

裏切りの契約.txt · 最終更新: 2024/10/28 13:11 by webmaster