最後の交渉
ガイウス・クレスウェルは深く息を吐き、目の前に広がる書斎の風景を見つめた。壁には古い地図や家系図が並び、かつての栄光を思わせるような装飾品が控えめに置かれていた。しかし、その空間は今、重い沈黙に包まれていた。
テーブルの向かいには、フィオルダス家の代理人であるトリスタンが座っていた。彼は鋭い視線をガイウスに向け、その目には同情とも警戒ともつかない感情が宿っていた。ガイウスは手の中の書類をゆっくりと置き、声を抑えて言った。
「これは私たちにとって、最後の賭けだ。土地の一部を譲り渡し、クレスウェル家の農場と最低限の保護を確保したい。私たちの要求はそれだけだ」
トリスタンは一瞬目を伏せ、書類に目を通すと、重々しく首を振った。「ガイウス殿、フィオルダス家としても協力したいが、この状況では我々の立場も厳しい。月の信者たちとの関係を考えると、クレスウェル家に全面的な支援をすることは難しい」
ガイウスの胸に冷たい痛みが広がった。彼は無言のまま、テーブルの端を指で軽く叩いた。彼の心には、今まで築き上げてきたものが音もなく崩れていく感覚が押し寄せてきた。しかし、それを表に出すわけにはいかない。彼には、守らなければならない家族があった。
「わかっている、トリスタン。私たちが無謀な要求をしているつもりはない。ただ……」ガイウスは視線をテーブルに落とし、ゆっくりと続けた。「これ以上の戦いは避けたい。私は、家族と家の名誉を守るために、今できる最善を尽くしたいのだ」
トリスタンはしばらく考え込んだ様子だったが、やがて口を開いた。「では、条件を出させてもらう。我々は農場の一部を受け取り、フィオルダス家の名義で管理する。ただし、クレスウェル家が二度と月の信者たちの秘密を口外しないことを約束しなければならない。そして、表立った支援は行わないが、必要最低限の保護は提供しよう」
ガイウスは一瞬、顔を上げ、トリスタンの目を見据えた。その提案は、自分がかつて持っていた理想とはかけ離れたものだったが、これが最後の選択肢だと直感していた。
「……その条件で構わない」ガイウスは頷き、トリスタンの手にある書類にサインをした。「ただし、フィオルダス家の支援がどれほどの価値があるのか、私は見極めさせてもらう」
トリスタンは軽く微笑み、手を差し出した。「ガイウス殿、我々は古い友人だ。できる限りのことをする」
ガイウスはその手を握りしめ、目を閉じた。目の前にはまだ不確かな未来が広がっていたが、少なくとも今、彼は家族と家名を守るための最善の一歩を踏み出したと信じた。
部屋を出るとき、ガイウスの背中はかつてより少しだけ重く見えた。しかし、その足取りには、まだ消えない希望が僅かに残っていた。